Funk Band
2019.04.12

ジェームス・ブラウンが生み出したファンク
Funk(ファンク)という言葉は、元々はスラングからきており、「匂い」「体臭」のようなニュアンスを指す、かなり感覚的なフレーズであり、日本語に正確に訳すのは難しい表現である。
1960年代にJames Brown(ジェーム・ブラウン)と彼のバンドのメンバーが中心となって作り上げられたファンクは、リズム楽器によるインターロックグルーヴを色の長いコードに絡めて奏でられている音楽である。
これは1拍目を強調した16ビートのリズムとフレーズの反復を多様した曲構成であり、一度聴くと耳から離れない力強いパワーをサウンドから瞬時に感じとれる。
1970年代前半になると、ジェームス・ブラウンによって生み出されたファンク・ミュージックがスライ・ストーンによってアメリカ中に広められ、それが優れたテクニックをもつ数多くのバンドの活躍によって黄金時代を迎えた。
アース・ウィンドウ&ファイアー、クール&ザ・ギャング、ウォー、グラハム・セントラルステーション、ファンカデリック・・・
これだけ多くのヴォーカル&インストゥルメンタル・グループが活躍したのはこの時期に限る。それは1970年代前半という特殊な時代だからこそ花開いた音楽であり、ブラック・ミュージックにとって一つの頂点を示すものであった。
その証拠に、その後1980年代以降に訪れるヒップ・ホップ・ブームにおけるサンプリングのネタとして最も多く使用されているのは、問答無用でこの時期のファンク・ミュージックであるからだ。
一体なぜ、究極のファンク・サウンドがこの時期に黄金期を迎えたのであろうか?
ジェームズ・ブラウンとスライ・ストーン
1960年代に繰り広げられた人種解放運動の結果、アフロ・アフリカンの人々は公民権だけでなく多くの権利を獲得し、アファーマティブ・アクションによって職場も確保。政界にも黒人の議員が数多く進出すると同時に、かつてマルコムXやキング牧師のようなポジションでのみ公に発言できた人種問題についての告発も、この時期は以前よりも自由に述べる事ができるようになっていった。
しかし、初めからこの潮流を受けてファンクミュージックが注目を浴びた訳ではなかった。
ハイテク・ファンクの原点であると同時に、その頂点でもある存在。それがJBことジェームス・ブラウンであることに異を唱える者はいないだろう。彼のファンク・ミュージックは、あまりに黒く、ポップ・ミュージックの世界では容易に受け入れ難いものであった。
その流れは1970年代初期も同様に続き、多くのバンドの曲がヒット・チャート、それもポップ・チャートを駆け上がってゆく中、JBのナンバーは相変わらずR&Bチャートというフィールドのみでしか登場することができなかった。(1985年に「リビング・イン・アメリカ」という愛国ソングにて、ようやく彼は全米規模で認知されることとなる)
人種問題を声高に叫ぶことが法的に自由になったとはいえ、それは社会的、経済的に自分が不利な立場に追い込まれることに結びついてしまった。「自由」は勝ちとった言えるものの、そこには新たな落とし穴が存在していたのだ。
そんな状況の中、JBが生み出したファンク・ミュージックを黒人だけでなく白人たち、そしてポップ・チャートにまで広めた救世主は、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリーダー、スライ・ストーンである。

彼が具体的にファンクの歴史において成し遂げたことは、彼でなければできなかったことばかりであり、サンフランシスコの黒人向けラジオ局で人気DJとして活躍していた彼はヒッピー・ムーブメントの聖地で、ロックの最先端とソウルの融合を目指していた。
人種融和の時代となる1970年代を先取りした彼は、黒人と白人、そして女性をメンバーとする画期的なバンドを立ち上げた。
バンド名はファミリー・ストーン。このバンドのスタイル自体がすでに時代の先を行っていたが、同時にそれは音楽のスタイルにそのまま生かされることに繋がり、自由なメンバー構成から生まれたロックとソウルの壁を取り払った自由な音楽を提供した。
それはJBが生み出した徹底した管理と訓練による究極のエンターテイメントとしてのファンク・ミュージックとは、ある意味対極に位置していたのかもしれない。
しかし、JBが築き上げた完璧なテクニックにまさるとも劣らない観客を躍らせずにはおかない熱い情熱がそこにはしっかりと存在していた。
スライ&ザ・ファミリー・ストーンの演奏はテクニックを超越した時代の空気満載のエネルギーの塊として、白人、黒人、女性、ロックファン、ソウルファン、そして国籍も超えてファンク・ミュージックを広めることに成功したのだ。

Writer / MY HOOD
MusicTripMedia