ジャズ音楽の帝王「マイルス・デイヴィス」 皆さんご存知ですか?彼の定番の名曲と共に生い立ちをご紹介。
2018.11.08

音楽好きなみなさんこんばんは。今夜もジャズを聴いていますか?その日の気分に合った時代・ジャンルのジャズでゆったり過ごすのも良いですよね。今回はモダンジャズを語るのに欠かせない、マイルス・デイヴィスについてご紹介します。
モダンジャズとは?
マイルスデイヴィスを語るのに欠かせないのが、モダンジャズの存在。JAZZは短い期間に急速かつ多様に発展しました。その中でもモダンジャズは1940年代~1960年代のジャズの総称です。ジャズの種類で言うとビバップからエレクトリック・ジャズの直前までのジャズを指します。
1940年代までのジャズは大衆音楽・娯楽音楽の面が強いとされていました。決まった曲を上手に演奏することが良しとされていたのです。いわゆる「マンネリ化」したジャズに飽きたジャズプレイヤー達が、お店の閉店後に自由なジャムセッションを行っていたものが発展し、即興演奏、「アドリブ」を取り入れたスタイルが生まれました。モダンジャズのはじまり、「ビバップ」の登場です。大衆音楽だとされていた黒人音楽が「芸術音楽」の側面を持ったきっかけでした。
クールを追い続けたマイルス・デイヴィスの
1926年生まれのジャズ史上最大のイノベーター、マイルス・デイヴィスは「ジャズの帝王」と呼ばれるトランぺッターです。ジャズを聴かない人でも、その名前を聞いたことがある人もいるかもしれません。彼無しではビバップ以降のジャズの発展はもっとゆっくりだったでしょう。
モダンジャズの発達に貢献した偉大なジャズプレイヤーの一人ですが、ジャズファンの中ではその評価が二極化します。約50年の音楽活動の中で、マイルス・デイヴィスのプレイスタイルが「変化し続けた」ためです。後述しますが音楽性の変化が「激し過ぎた」ジャズプレイヤーの一人と言えます。
多くのジャズファンは「アコースティック時代のマイルスは好きだけど、エレクトリック以降のマイルスは好きじゃない」と言います。クール・ジャズ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて、時には自分が「良い」と感じたジャズを追い求めました。
変わりゆく音楽性とジャズへの影響
1944年に音楽活動をはじめ、1967年まではアコースティックなジャズバンドとして活動していました。
クールジャズに大きな影響を与えた1957年「Birth Of The Cool / クールの誕生」では、アコースティックなジャズが全面に押し出されています。
ジャズファンにとっても聴き心地の良いジャズですが、1968年にリリースされたアルバム「Miles In The Sky」では、エレクトリックを導入します。
さらにその半年後「In A Silent Way」では3台ものエレクトリックピアノを導入し、本格的なエレクトリック化を進めます。
この3枚のアルバムを聴き比べるとその変容ぶりが分かりますね。In A Silent Wayまで来ると、元のアコースティックなジャズの姿はありませんね。「マイルス・デイヴィスはジャズを捨てた」とまで言うファンの気持ちも分かります。
1969年にはアルバム「Bitches Brew」をリリースします。
完全にフュージョンの方向へと進んだマイルス・デイヴィス。もちろんですが古くからのマイルス・デイヴィスファンの多くは、音楽性の変化についていけず離れていくことになります。
ロックの要素をいち早く取り入れたマイルスの歴史
マイルスが急激なエレクトリック化を進めた1960年代、マイルス・デイヴィスのジャズは当時大流行していた「ロック」の影響を強く受けていると言われています。ロックらしいリズムや、電子楽器を積極的に取り入れました。面白いのが当時のロックは黒人音楽である「リズム&ブルース」の影響を受けています。マイルスは黒人音楽の影響を受けていた白人音楽ともいえるロックを、自信の黒人音楽へ再び取り入れようとしたのです。貪欲なまでの音楽性の追求でした。
マイルスは1975年に体調を崩し、1981年から音楽シーンでの活動を再開しました。驚くことにマイルスの晩年の試みは、ポップスへの挑戦でした。より広いリスナー層へのアピールを狙ったとも言えます。マイルスは晩年、ジャズが本来持っていた「大衆音楽」の要素を取り戻そうとしたのかもしれません。
「いい音」を追求したジャズミュージシャン
当時黒人から非難の対象であって白人ジャズプレイヤーをバンドメンバーに迎えたり、日本人アーティストを起用したりするなど、「良い音のためなら肌の色は問わない」とする意志の表れも見て取れます。1991年、当時65歳のマイルスはその生涯を終えました。生涯に渡って新たな音楽表現を追い求めたマイルス。モダン・ジャズ発展に寄与した1人のジャズプレイヤーのDNAは今もなお受け継がれています。
