J Dilla "音楽史を塗り替える夭逝の天才ビートメイカー" がもたらした音楽シーンへの影響を探る。

2018.11.25

アメリカはデトロイト出身。hiphopのみならずR&B、ソウルのカルチャーにも多大な影響を与えたプロデューサー/トラックメイカー、J Dilla(ジェイ・ディラ)。初期においてはJay Deeの名で活動し、スラム・ヴィレッジやSoulquariansの一員として活動した。J Dillaが作成したトラックの数々は後世のブラックミュージックにおけるトラックメイキングの金字塔となった。

有名ビートメイカー J Dilla

J Dillaはとにかくビートを作り出すことに時間と情熱を注いだ。壁から天井までぎっしりとレコードが詰め込まれた自宅の地下室に籠って、新しい音楽を産み出すことに夢中になっていた。彼の初期の活動の中で、一流のプロデューサーとして存在を大きく世に知らしめるきっかけとなったのが、The Pharcydeの「Drop」。


この楽曲の制作は本来、A Tribe Cold QuestQ-Tipが手がける予定だった。しかし当時のQ-Tipはヒップホップシーンきっての人気者。忙しくて手が回らなかったため、J Dillaに話が回ってきたのだ。この一風変わったMVも話題を呼び、J Dillaはトラックメイカーとして引っ張りだこになっていく。J Dillaのサウンドの特徴は、少しくぐもったベースラインと強烈にパンチの効いた太いビート。そして何より、多くのミュージシャンをして一体何をしてるのか、どうやっているのか分からないと言わしめた、いわゆる”もたれたビート”。MPCでビートを作成する際に一般的な行程であれば、入力した音源データのズレたポイントを補正するクオンタイズ機能を使用して音のバランスを整える。しかし、J Dillaはあえてこの機能の使用せずにビートを作成し、少しよれているのに聴き心地が良い絶妙なトラックを作り出したのだ。これは彼が亡くなってしまった後も「ディラっぽいビート」として受け継がれ続け、ビートミュージックやエレクトロなど打ち込みの音楽の世界だけでなく、実際に体を動かして音を生み出すドラマーにも大きく影響を与えていく。

「ディラっぽいビート」

J Dillaのビートのよれていながら、もたついていながらも心地の良いサウンドは多くの生身のドラマーを虜にしていった。J Dilla自身も一員であったSoulquarians(ソウルクエリアンズ)は1990年後半から2000年の初頭のネオソウルブームの立役者たち。その実質的リーダーであったThe RootsのドラマーQuestlove(クエストラブ)もJ Dillaサウンドの虜になった男の一人。彼は自身の手で「ディラっぽいビート」を演奏することを追求し、自身のドラムの技術をより高度な次元に高めていった。

Questlove

ジャンルの垣根を超え、ジャズアーティストにも影響を

更には Jazz界の異端児として、新たな時代を切り拓いていっている存在、Robert Glasper(ロバート・グラスパー)も影響を受けたアーティストの一人としてJ Dillaを挙げており、Glasperとと共にバンド活動を行うドラマーDelic Hodge(デリック・ホッジ)もJ Dillaから強いインスピレーションを感じ取ったのだとGlasperと口を揃える。J Dillaはヒップホップのインストとしてのビートミュージックとしてだけでなく音楽シーン全体に影響を与える存在になってしまったのだ。

J Dillaが残したモノ。ビートを探求してきたアーティストの名作

Hip Hopシーンにおいて若くして亡くなってしまったスターとして過去に2Pacについても言及したが、皮肉にもアーティストの死は時に彼らの存在をより際立たせる。J Dillaは32歳にして病魔に犯されこの世を去ってしまった。彼が病に苦しみながらも制作を続け、生前最後のアルバムになった『Donuts』は後世に残る名作となった。

短くも輝かしい人生を送ったJ Dilla。彼の遺作とも呼べる作品も是非チェックしていただきたい。

Writer / Taneda

平成初頭生まれ会社員。 趣味のブレイクダンスをきっかけにブラックミュージックに没頭。 なんやかんやあってjazzに現在傾倒中。